個人の話、主観の話

今年僕はサブゼミにおいて
SSG(Social Studies Group)と幼児教育分科会に入っています。
ちなみにSSGって言っても左じゃないからね。笑

で、SSGの方は14人という大所帯なのですよ。

すごい難しいんです、SSGは。

まず、全員集合が難しい。笑

なんて話は置いといて。

やっぱりそれぞれの方向性が違う。
方向性が違うって時のタイミングがわかりにくいよね。
さっきの話で通じあってた人と今の話では通じあえない。笑

しかも
なかなかみんな静かなので
表情を見てないと意志疎通の確認が難しいね。
表情はけっこう素直なので(失礼)
僕なんか表情だけじゃなくて態度も素直です(ゴメンナサイ)

とまぁ、これは枕なんですが。

最近のSSGでの個人的な反省を1つ。

昨日のSSGでは<管理>と<管理に似た状況>という話題が出ました
管理に似た状況については、絶対的に管理とは違う(と僕は思う)のですが
それを表す良い言葉が見つからなかったので
<管理に似た状況>という言葉を使いました

しかし

そのことによって、<管理>という言葉が持っているイメージから離れられず議論はカオスへ向かいました
(と僕は思います)

再びしかし

<管理>と<管理に似た状況>は違う、けれども「なんとなくこんな感じ」と割り切れれば
議論はもう少しだけ前に行けたのではないか。

何をいまさら。

そうなんです。僕にこの冷静さがなかった。
まだまだみんなのようには思考の瞬発力が無い。それも決定的に。
次回以降の反省です、僕の。

さて、<管理>という言葉から浮かぶイメージは個々人によって違いました。
こういうことってよくありますよね
それはなんでなのでしょうか?

そこで思い浮かんだのが<クオリア>という言葉です。

<赤>ってどんな色なのか。
630―730mmの可視波長を人間は「赤」と呼びます。
なのですが、その可視波長が同じ<色>に見えるのかどうか
これはわかりません
630―730mmの可視波長が<赤>と名づけられているわけですが
その「赤」がみんなに同じ色に見えている保証はないわけで。

630―730mmの可視波長を僕が「赤」と呼び、あなたもそのある色を「赤」と呼んでいるが、
僕にはそのある色が「赤」に見えていて、あなたにはそのある色が≪ぼくにとっての「緑」≫に見えていたと仮定する。
すると
ある色について、僕とあなたはその色について「赤」と呼んでいるので、
ここでは「赤」の本質
(僕にとっては「赤」は「赤色」に見えて、あなたにとって「赤」は≪僕にとっての「緑色」≫に見えるということ)は違う。

しかし、同じある色について、二人の見え方が違うんだけれども

「赤」と呼んでしまうことによって、その色の本質が違うということを証明ができないわけだ。

非常にややこしい話ですね。笑。何回か読み返してみてください。

本質の違いの可能性について証明できないので、実はそうかもしれない、ということがいえないか。

<赤>を<赤>と感じ取る感覚を構成する質感を、意識内容を
クオリア>と呼びます。日本では茂木健一郎さんがこの研究で有名ですね。
さて、このクオリアはイメージを思い起こすための意識的な感覚なので
個々人に特有です

つまり<主観>というものもここに入ってきそうな気がします
そう直観します。

個々人に特有、つまり個々人の内にこもるクオリアですが
そのクオリアがなければ他者と繋がることはできません。
クオリアがなければ、感情が生まれない。
クオリアが視覚映像を自分のために切り取り、意味付けもするでしょう。
個々人の主観(≒クオリア)がなければ社会が生まれない、とも言えます。

さて、おまけで載せたつもりのクオリアからなんとなく自分へのヒントが生まれました。

社会というものを考える、社会の問題点を考える、とは、個人を考える。
うーん、古典的な思いつき。笑

社会の抱える問題点とは、個人の抱える問題点とイコールではないか。

ということを考えることにしましょうか。
これでは少し表現に飛躍を感じますか?

僕はあまり飛躍に感じていないんですね。